今日9月13日の山梨日日新聞に掲載された、富士川の渡し舟に同乗させて頂きました。
当時、嫁入りの時に奥様が乗って来た舟を再現した斎藤さん
愛する奥様の『嫁入りの時のように富士川を舟で渡りたい…』という想いを叶えるために
当時の高瀬舟を自主製作する過程の中で、記憶や様々な資料を頼りに、今は現存しない図面を
後世の人の為に一から起こしたというすごい人です。 (歴史的に貴重な文献となることでしょう。)
何よりも、愛する妻の夢を叶えてあげるという、男の優しさとロマン。
まさに昭和を生き抜いた、男のダンディズムと生き様を感じました。
なんと、
家族水入らずの最終便に同乗させて頂きました。申し訳ありませんでした。
本当に感謝しています。m(__)m
川から観る富士川の景色は
まるで時間をタイムスリップしたかの如く、
いにしえの塩の道、歴史を肌で感じられました。
南からの川風は
舟の動きが止まるほどであり
この日のような天候では
帆を架ければ充分、上流に向けて進む感触も味わえました。
穏やかでゆったりした
舟運の歴史。
富士川が
山梨県内の物流の中心だった時代に想いを馳せました。
西暦1607年に
角倉了以が手掛けた富士川舟運は当時の甲斐の国、特に峡南地域の物流を飛躍的に発展させました。
「上げ米、下げ塩」 といって、幕府に献上する米を駿河経由で運び、
帰りには塩や海産物を積んで富士川を北上したとのことです。
過去にたしか、こんな話を耳にしました。
動物性タンパク質が貴重な江戸時代
アシの早い(腐るのが早いということです。)
「いるか」の肉を食べられるのは、増穂までであり、当時の贅沢食自慢のひとつであったという事を
聞いたことがあります。
ですから、現在の南アルプス市以北の方は、いるかを食べる習慣がないんです!
(最近は滅多に食べませんが、チョッと前までは鰍沢町内の魚屋さんにありましたよね。)
さて。
昭和3年に開通した身延線は、静岡県側が、「上り方面」となっているのは、
舟運時代は駿河側が、江戸に近かった事の名残です。
時代は繰り返すと言います。
中部横断道はまさに、この繰り返す歴史のインフラ整備といったところでしょうか。
この歴史的な取組を、上手に私たちの生活に活かす工夫をして行きたいですね。
普段見慣れた
富士川沿いの新しい魅力を体験させて頂きました。
貴重な時間をありがとうございました。
地域の宝である、私たちのふるさとの自然を生かしていきたいと感じました。